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- 2024年8月の記事
リフォームするならスマイルリフォーム!!
- 投稿日:2024年 8月10日
こんにちは!!
最近暑いですね!
外で作業やお仕事をされている方には頭が上がらないです。
皆さんも水分補給や体調管理には気を付けて夏を乗り切りましょう。
今回はトイレのリフォーム工事をご紹介します。
トイレ交換だけではなく、腰壁の部分でパネルを貼らせて頂きました。
これにより、より清掃性が高くなったと思います。
いつまでも綺麗なトイレを使って頂ければと思います!!
皆さんもトイレのリフォームを検討してみてはいかがでしょうか。
before
after
暑い日もかんばります!
- 投稿日:2024年 8月 8日
こんにちは!
中村工務店の営業部の崔でございます。
今年の夏もすごく暑いですね!
連日熱中症アラートが発令されているので皆さまも外出の際はご注意ください。
さて、暑い夏でも省電力で涼しく過ごすために今内窓設置が注目されています。


上が設置前・下が設置後となります。
設置後この窓から暑さを感じなくなったとお話しいただいております。
エアコンをつけても暑くて不快に感じるようでしたら内窓設置は効果的です!
是非中村工務店にご相談ください!
中村工務店【創業の精神】
- 投稿日:2024年 8月 7日
昭和20年8月9日 マリアナ諸島テニアン島を飛び立ったB29爆撃機は1発の原子爆弾を長崎市松山町(中村工務店所在地)上空に投下した。一瞬で長崎市内は焼け野原になり7万人が死亡、7万5千人が負傷した。原爆の熱線で皮膚は焼け落ち死んだ弟を放心状態で背負っている兄の姿など見るに無残な街に一瞬で変貌してしまった。
中村工務店の創業者の中村鉄治は当時宮崎県延岡市に18歳で招集されていたが終戦とともに長崎に戻り変わり果てた長崎の街で必死に職を探した。生まれ故郷の雲仙市では仕事がなく、金を稼ぐために毎日長崎市内まで3時間も自転車で行き来して道端に落ちている煙草を拾い集めては実家に戻り 吸い残りのたばこの葉っぱを巻き直して翌日には長崎の路上で売って小銭を得て生活していた。月日が経過するとともに蘇っていく長崎の街を見ながら鉄治は空地を見つけては土地を仕入れて、古材を活用して家を建て微力ながらも長崎の街の復興に力を注ぎ生きていった。
中村工務店は原爆落下中心地碑から100Mほどの場所に拠点を設けて日本の高度成長の波にのり総合建設業として長崎でも有数の会社となり拡大していった。しかし昭和60年に長崎の主幹産業である造船不況や鉄治の病気などが重なり中村工務店は三億円の負債を抱えて倒産した。多くの方々に迷惑をかけてしまったことを罪と思い、妻のサカエに死の道を選択することを伝えた。しかしここで死んでしまってはいけないとサカエは鉄治を思い留まらせ、自分が率先して保険の営業として働いた。借金を返す道を選んだ。妻の姿で我に戻り営業しかしたことがなかった不器用な鉄治も焼肉屋で網を洗うアルバイトをして生活費に充てた。16歳だった鉄男は網を洗う父親の姿を見て自分もその焼き肉屋でアルバイトを始めた。しかし家族全員で必死に借金を返そうとするが3億円の借金を簡単には返すことが出来なかった。中村工務店という名の会社は残っているが金融機関に約束した元金を毎月毎月コツコツと返済していくのが精いっぱいの日々を送り続けた。
もう一度倒産してもおかしくない状況の中で目の前にある仕事を愚直にこなしていた時に一枚のチラシを事務員さんが専務の鉄男に差し出した。このままでは何も変わらない、このセミナーでも聞いてみたら?と差し出したのが【リフォーム業立ち上げセミナー】だった。鉄男はセミナーで学んだことでハッと気づき、長崎ではだれも専業で取り組んでいないリフォームという分野を必死に学んで挑戦した。網戸の張替え、トイレの詰まり、お湯が出ない、雨漏りなど小さい仕事ばかりだったが 沢山の人々に【ありがとう、助かったよ】とお客様の笑顔を毎日見ることが出来ることが楽しかった。新築などは一生に一度の付き合いかもしれないが 修繕などの住まいのお困りごとに向かいあうことは 一生涯の付き合いが出来ることがうれしかった。お困りごとを改善し お客様が笑顔に変わる瞬間が鉄男には仕事の喜びと感じた。
創業者が抱えた借金も25年掛かりはしたが返し終えることが出来た。あの時投げ出すことなく返済の道を選んだ創業者の選択が今の中村工務店の理念である【正直に生きる】に繋がっている。創業者が作りたかったであろう正直な会社 約束は守る会社 信頼できる会社 が65年の月日を経て受け継がれている。
【初代中村工務店 木造昭和40年ごろ】
【昭和45年新築 2代目 中村工務店本社ビル】
【平成27年新築 3代目中村工務店本社ビル】
【創業者中村鉄治 40歳のころ】